2020年7月3日金曜日

太郎再発見:311後のあべこべの社会を正せる政治家は山本太郎しかいない(2020.7.3)。

311原発事故後の社会。そのエッセンスはあべこべにある。
原発事故を起こした加害者たちは、救済者のつらをして、命の「復興」は言わず、「経済復興」と叫んで堂々と開き直り、
命に危険にさらされた被害者は「助けて」という声すら上げられず、上げようものなら経済「復興」の妨害者として迫害される。
あたかも密猟者が狩場の番人を、盗人が警察官を、演じている。安全を振りまくニセ科学が科学とされ、危険を警鐘する科学がニセ科学扱いされる。狂気が正気とされ、正気が狂気扱いされる。これをあべこべの不条理な社会と呼ばずして、何と呼んだらいいのか。

では、311後の理不尽なあべこべは正すことができるだろうか。
できる。では、どうやって?
それもまた311後のもう1つのあべこべによってである。
311原発事故のあと、それまでにはなかった出来事が起きた。
それまで、市民運動に縁がなかった人たちの中から、それこそ取り憑かれたかのように放射能の危険性について猛勉強し、猛烈に行動する人たち(新人類)が出現したからである。
例えば郡山市の長谷川克己さん、松本徳子さん。
二人は、事故直後、どこにそんなエネルギーがあるのかと思うほど測定を行い、信頼できる学者・医師の講演会を求めて参加するなどメチャクチャ行動した。
まさしく、「放射能から自分の子どもと家族、そして人々の命、健康、暮らしを守りたい」とそのために自分で出来ることは全てみずから努力し、検討し、選択して行動しようと一心不乱で取り組んで来た。
だからこそ、人々の命、健康、暮らしを守ることが存在理由である日本政府、福島県に対し、その怠慢ぶり、無為無策という犯罪に対しても、当然のことながら、誰よりも情け容赦ない批判が及んだ。

そのような新人類の一人が山本太郎。
彼もまた、311までは市民運動とは全く縁がなかった、ただの役者。
それが311で雷に打たれたように変貌し、放射能から人々の命、健康、暮らしを守りたい」とそのために自分で出来ることは全てみずから努力し、検討し、選択して行動しようと一心不乱で取り組む市民の一人となった。
だから、彼もまた、人々の命、健康、暮らしを守ることが存在理由である日本政府がそれを果さないことに対し、常識を突き抜けた、情け容赦ない批判を加えた。例えば、2011年10月15日、郡山市でやったふくしま集団疎開裁判のデモ。デモ前のスピーチで山本太郎はこう発言した。
どうして(ふくしま集団疎開)裁判をしなくちゃいけないんだ?おかしいじゃないですか!国が率先して子どもたちを逃がす、そうしなけりゃダメなんですよ
疎開裁判を全否定された――当時、疎開裁判の弁護団長だった――私は、これを聞き、思わず「そうだ、なんで、こんな裁判をしなくちゃいけないのか。おかしい!」と合点した。

311後の正義と不正義が入れ替わったあべこべの世界を正すことができる人というのはこういう人、あべこべを自ら身をもって生きている人である。なぜなら、山本太郎はあべこべを正すことが自分の天命であることを311を経験する中で身をもって知ってしまったからである。

311後のあべこべの社会を正せる政治家は山本太郎しかいない。


(動画)2011年10月15日郡山デモ:山本太郎スピーチ

2018年2月26日月曜日

忘れられた巨人「幕末の日本人」:会津藩を滅ぼしたのは薩長軍ではなく、会津民衆の世直し一揆だった

いつも不思議なのは、NHK大河ドラマで、信長、秀吉、家康、武田信玄、上杉謙信は何度も何度も登場するのに、彼らの最大のライバルだった一向一揆の百姓たちについては、一度も取り上げないことです(もちろん中世の裁判のことも取り上げません)。

しかし、当時、京にのぼる(上洛)一番乗りとされた上杉謙信がなぜ、それが果たせなかったのか?それは一向一揆の百姓たちに京への進撃を阻まれ、それを克服するために消耗して、力を使い果たしてしまったからです。
->越中一向一揆・北条との戦い・尻垂坂の戦い

これと似たような話は中世だけでなく、幕末にもやまほどあります。

◆幕末、なぜ、会津藩は滅びたのか? 
薩長軍のせいではありません。薩長軍はきっかけにすぎません。会津の民衆が起こした世直し一揆が滅ぼしたのです。

>会津藩でも9月22日に若松城が落ちると、領内(特に戦場にならなかった地域を
>中心)に会津世直し一揆が発生、領内のほぼ全域に拡大した。領民は会津藩主
>松平容保の京都守護職就任以来の重税に対する不満を一気に爆発させ、藩の支
>配組織を完全に解体に追い込んだのである。

◆幕末、なぜ、越後長岡藩が敗れたか?
私の生まれた越後長岡でも、河井継之助が敗れた最大の原因が薩長軍ではなく、長岡の民衆が起こした世直し一揆のせいであったことを最近、知りました。

>長岡藩では5月19日に長岡城が落城すると、米の払下や藩による人夫徴用に反対
>する一揆が発生した。5月20日から吉田・巻一帯で発生した一揆は領内全域に広
>がり一時は7,000人規模にまで達するものとなった。これに対して長岡藩では、
>新政府軍と戦っていた部隊の一部を引き抜いて鎮圧にあたった結果、6月26日に
>ようやく鎮圧した。これによって長岡藩の兵力が減少したのみならず、人夫動
>員も困難となり河井継之助の長岡城奪還計画は大幅に遅れて、結果的に新政府
>軍に有利に働くことになる。河井継之助の命運を尽かせたのは実は新政府軍の
>兵器ではなく、領民の一揆による抵抗による作戦好機の逸失であったと言える。

以上は、戊辰戦争と慶応4年の一揆


中世に戻って、家康も、家臣の半分が相手方についたという、三河一向一揆ではあやうく死ぬところでした。だから、彼のこの熾烈な経験がその後の民衆支配の方法を考え抜く原体験になり、徳川体制の礎になったと思います。 ->三河一向一揆

信長も秀吉も、中世の既成の大名たちも怖くも何ともなく、最も恐れたのは自分たちと同じ新興勢力の一向一揆衆です。
信長が伊勢長島の一耕一揆衆と3回に及ぶ熾烈な戦闘をし、男女を問わず宗徒を皆殺ししました。
しかし、この過酷な弾圧にもかかわらず、信長・秀吉に敗れた紀伊の雑賀衆の一部は、これに屈服せず、海を越えて韓国に逃げ延び、朝鮮出兵した秀吉軍に対し、鉄砲隊を率いて秀吉軍を苦しめたと言われています。 -> 雑賀衆

中世でも、幕末でも、当時の民衆の力が信長・秀吉・家康らと拮抗するものであった事実は、江戸以来、歴史から抹殺すべき最重要機密情報です。だから、国民的番組の大河ドラマで決してこの真実は伝えない。 原発の安全神話の刷り込みというマインドコントロールは、決して311原発事故に限らず、あらゆる分野の真実の隠蔽として、私たち市民から隠されているのです。

確かに、自分たちが支配者側だったら、これを民衆が知ったら、民衆は自分たちを再定義して、いろんなことをやらかすにちがいない、マスコミよ、ぜったいに隠せ!と風評払拭に励むはずです。

忘れられた巨人「中世の日本人」:400年前まで、日本は世界有数の訴訟超大国だった

以下は、
つぶやき(6)400年前まで、日本は世界有数の訴訟超大国だった(2014.10.22)
を一部編集して、再掲したものです。

    **********************

先日、原発告訴団に参加している福島の人から電話をもらった。そこで、子ども脱被ばく裁判が話題になり、その人が、
「裁判の原告になるって大変ですよ」
と言ったとき、私の感想は、
「原発告訴団は、相手を処罰せよだから、もし間違って訴えたら、冤罪で大変なことになる。だから、それができる位だったら、こどもを逃がして欲しいと訴えても、仮に間違ったとしても、誰も迷惑を及ぼさない。だから、本来なら、もっとぜんぜん気を楽にして原告になれる」
でした。
なぜなら、その人は、自分が裁判の原告になるなんてあり得ないという風に思い込んでおられる様子がありあり(^_^)。

私が、欧米では、下宿人が家賃を払わないと家主はさっさと裁判を起こす、まるで買い物でもする感覚ですよ、と言っても、それは海外のことだからと信じてもらえない。

それで、日本でも、少し前までは、欧米と変わらなかったことを伝えようと思ったのですが、ちゃんと証拠を示さないと説明責任を果たしたことにならないので、そのあと、調べた結果を報告します。

網野善彦という日本の中世の研究者として代表的な人物がいますが、彼の「中世の裁判を読み解く」という本の中で、鎌倉時代に、民衆が時の政府の役人や政府が保護する寺を相手に裁判を起こして、勝訴した記録を読み解いています。

網野善彦は、まえがきで、13世紀の日本で、世界史的にみても例のないほどの充実した裁判手続が作られ、それに基づいて裁判が行われたことに、ビックリして、これについてもっと考えなければならないと述べています。

網野善彦は、別の本「日本中世の民衆像」の中で、中世の裁判について、こう解説しています。

この史料は、静岡の、傀儡と命名された原告(全員、尼層の姿をした女性だった)が、鎌倉幕府の法廷で、源頼朝の寺(寿量院)の訴訟担当の役人(雑掌)と訴訟を行い、
「幕府の法廷で、幕府の保護する寺院の雑掌と堂々とわたりあって、訴訟に勝ったことを示す史料であります」

これを現代に翻訳すると、
全員女性が、国の法廷で、国の保護する団体(自治体)の代理人と堂々とわたりあって、訴訟に勝った」
ようなものです。

で、こうした裁判はまれなことか?というと、とんでないことで、網野善彦の「日本社会の歴史」の中に、次のように紹介されています。

(1221年の東国・西国戦争<承久の乱>のあと)
鎌倉幕府から任命され、各地の荘園の管理を任された地頭は、幕府の力を背景に、その支配方式を平民百姓に強要‥‥。
しかし、こうした地頭への従属を不当とする平民百姓たちの抵抗が各地で激烈におこり、その訴えを支える領家・預所と地頭との訴訟・相論が各地で頻発した(中巻128頁)

(1333年、鎌倉幕府が崩壊し、後醍醐天皇の専制のスタート)
後醍醐天皇は、関東の引付にならった民事法廷、雑訴決断所を設け、ここには腹心の貴族や武士だけでなく、関東の旧評定衆なども大幅に採用して、押し寄せてくる膨大な訴訟の解決に当たらせている。(下巻3頁)

網野善彦が編集委員をやっている「日本の社会史」5巻 裁判と規範の中の「中世の訴訟と裁判」の冒頭に、

笠松宏至は、鎌倉中期以降の公家政権の「雑訴興行」(裁判制度を充実し、裁判を活性化させること)が徳政の最重要課題であったことを指摘し、公家政権がそのように対応せざるを得なかった理由を、平安末以来の民間における寄沙汰や大寺社による強訴の盛行、‥‥に求めた。

とあります。

つまり、12世紀から16世紀にかけて、日本は世界有数の訴訟先進国・訴訟超大国だったということです。つまり、この当時の日本人は自分の権利は自分で守るという「市民の自己統治」が常識として確立していたのです。

しかし、その後、秀吉の天下統一、家康の徳川時代になって、これがばたっと途絶えました。そのため、のちの時代の私たちは、500年以上前の私たちがどんな姿だったのか、忘れてしまいました。

というより、この500年間、500年以上前の市民の姿を正しく伝えないように、時の支配者たちは心を砕いて来ました。マスコミももちろんそうです。

私は以前、NHKの大河ドラマの裁判の仕事をしていたので、調べたことがあるのですが、こうした事実は決して紹介しようとしないタブーです。

大河ドラマで、信長、秀吉、家康、武田信玄、上杉謙信は何度も何度も登場しても、彼らの最大のライバルだった一向一揆の百姓たちについては決して取り上げません(もちろん中世の裁判のことも取り上げません)。

しかし、当時、京にのぼる(上洛)一番乗りとされた上杉謙信がなぜ、それが果たせなかったのか?それは一向一揆の百姓たちに京への進撃を阻まれ、それを克服するために消耗して、力を使い果たしてしまったからです。->越中一向一揆・北条との戦い・尻垂坂の戦い

似たような話はやまほどあります。

500年前の日本人が、いま生きていたら、きっと、みんな、市民の自己統治として訴訟を起こしていたでしょう。

500年前の日本人と現代の私たちがそうちがっている訳ではありません。
一方の日本人は、不当なことが行われたんだったら訴訟起こすべ、と当たり前のように思い、
他方の日本人は、不当なことが行われたとしても、訴訟を起こすなんて、と当たり前のように思っています。

どっちになるか、たまたま生まれた時期がちがうだけで、考えがちがってくるなんて、おかしな話です。

太平・平安な時代なら、どっちでもいいですが、
ボヤボヤしていたら、取り返しのつかないことになるときに、どっちの考えが生き延びるために必要かは、500年前の人に聞かなくても明らかです。

補足
中世の研究者網野善彦の「日本中世の民衆像」によれば、

もともと朝廷の儀式の意味として使われた公事(くじ)が、室町時代から、裁判、訴訟の意味でも用いられるようになったのはなぜか?と大変面白い問題だと自問自答しています(76頁~)。

思うに、裁判が個人の小さな問題ではなく、国の一大政治(まつりごと)として位置づけられるようになったからではないかと思います。それくらい、裁判は当時の日本人にとって、頻繁に目にする日常の出来事だったのです。

興味深いのは、ポルトガル語の「日葡辞書」が最近、日本語に翻訳され、それによると、
公事(くじ)をする、という意味が、天然痘にかかる、ことだと紹介されています。
これについて、網野善彦は、こう説明します。
「つまり、いやなことだけれど、だれもがしなくてはならない、世間一般の人が皆すること、という意味なのでしょうか。‥‥公事(くじ)の意味を考えるためにも、これはかなり大切なことだ考えます。(77~78頁)

ここから、次のように考えることができます。

この当時、裁判をするというのは、いやなことだけれど、だれもがしなくてはならない、世間一般の人が皆すること、それくらい、公共の出来事だった、と。

忘れられた巨人「中世の日本人」:コヅレはなぜ優秀なのか?

コヅレ()、本名、井戸謙一。2006年、稼動中の志賀原発の運転停止の判決を出した裁判長。学生時代、彼は教育学部の学生で、一度も法律の授業を受けたことがなかった。なのに、半年弱の独学で、司法試験に一発で合格し、1年先輩だった私の前を彗星のように横切っていった。これは、二十代すべてを司法試験の受験勉強という獄中で送った私にとって、言葉も出ないほど驚異的な出来事だった。 

     ()コヅレと呼ばれた当時の写真(左端)
しかし、その後、その訳が分かりました。彼が優秀なのは、別にIQが高いとか、遺伝子が別だからではなくて、大阪の堺に生まれ育ったからだ、と。

堺は、日本中世史の最も重要な場所です。中世の歴史家網野善彦の本には、堺、堺と堺ばかり登場します。

彼の「日本の中世都市の世界」の中で、

当時の宣教師が本国宛に書いた書簡に、
堺の町を一歩外に出れば、直ちに殺し合い、傷付け合う敵味方が、この町に入るやいなや、その区別なく、<大なる愛情と礼儀をもって>平和に応対する不思議さに、まるで魔法でも見るような驚異の眼をみはった
ことを書いています(16頁)。

1518年に将軍足利義春の弟が堺にいて、「堺公方」と呼ばれ、回りが彼を盛りたてて、「堺幕府」と言われるほどの勢力だった(「日本社会の歴史」下72~73頁)

ウィキペディアにも次のように記されています。

応仁・文明の乱以後、それまでの兵庫湊に代わり堺は日明貿易の中継地として更なる賑わいを始め、琉球貿易・南蛮貿易の拠点として国内外より多くの商人が集まる国際貿易都市としての性格を帯びる。布教のため来日していたイエズス会の宣教師ガスパル・ヴィレラは、その著書『耶蘇会士日本通信』のなかで、「堺の町は甚だ広大にして大なる商人多数あり。この町はベニス市の如く執政官によりて治めらる」と書いた。この文章によって、堺の様子は当時の世界地図に掲載されるほどヨーロッパ世界に認識されることとなる。
ヴィレラの後継宣教師であるルイス・フロイスもまた、マラッカの司令官宛に「堺は日本の最も富める湊にして国内の金銀の大部分が集まるところなり」と報告、その著書『日本史』のなかで堺を「東洋のベニス」と記している。

堺の特筆すべき点は、時の権力者たちの支配から自由だった自由都市だった点です。
自由都市というのは、現代社会という社会システムを作り出した遺伝子、DNAみたいなものです。西ヨーロッパに、中世に出現したベニスなどの自由都市(その数は3000以上と言われています)は、その後、そこを拠点として、宗教改革(ジュネーブ)や近代市民革命が起こったからです。

堺が自由都市として優秀だったのは、その名前に現れています。
堺とは、境(境界)のことで、摂津国・河内国・和泉国の3国の「境(さかい)[1]」に発展した街であることから付きました。
つまり、既存の共同体と共同体のあいだ、すきまに生まれたことが、境の優秀さを決定したのです。

なぜなら、既存の共同体と共同体のあいだ、すきまで生きていくためには、1つの共同体の掟、しきたり、慣習だけに従う訳にはいきません。
それは、或る意味で、偶像崇拝(共同体の掟、しきたり、慣習に従うこと)の禁止です。
それぞれの共同体に存在する異なる掟、しきたり、慣習を理解した上で、そことべったりするのではなく、それらと距離を置いて、どの共同体に対しても受け入れられるような普遍的な原理を心がけるようになります。
その典型が、古代ギリシャの都市国家(ポリス)で生まれたギリシャ哲学やユーリッド幾何学、中世イタリアの自由都市で生まれたルネサンスの文化です。

堺=境=すきまで生き延びるために、人々は否応なしに、優秀にならざるを得ない。
他方で、堺=境=すきまで生きる人たちこそ、優秀になれる条件を備えている。
私たちは、或る種の抑圧の中にいると、思考能力が停滞します。その典型が共同体が押し付ける掟、しきたり、慣習です。市民立法、裁判などをやってはいけない、恥ずかしいことだ、もっと別な大人しいやり方で行くべきだといった無言の抑圧です。
こういう抑圧が、堺=境=すきまで生きる人にはありません。だから、彼らの思考能力は停滞することがない。いつでもエンジン全開です。

境に住んできたコヅレは、それまで一度も授業に出たことすらなかった法律の勉強を独学で始めて、あれよという間にマスターしてしまったのも、偶像崇拝といった抑圧のない世界に生きているため、彼の思考能力は停滞することなく、フル回転で発揮されたからではないかと思う。

これは、アインシュタイン、チョムスキー、スピルバーグなどのユダヤ人がなぜ優秀かという問題と共通する。彼らが優秀なのもまた、別にIQが高いからでも、遺伝子が別だからでもなくて、彼らが堺=境=すきまで生き延びるために、ユダヤ教の教え=偶像崇拝の禁止に従い、思考能力を停滞させることをしてこなかったからです。

放射能汚染地図を作成した群馬大の早川さんは「いま勉強しないと、死ぬぞ」と警鐘を鳴らしました。しかし、彼は、どうしたら勉強して理解できるようになるかについては言わなかった。

その答えは、コヅレに見習え、です。つまり堺=境=すきまで生きること、思考能力を停滞させるありとあらゆる偶像崇拝をやめること、です。

ところで、日本は、ヨーロッパほど自由都市が出現・発展しないうちに、日本の宗教改革も市民革命も、信長、秀吉、家康たちの手でつぶされてしまった。
コヅレはその貴重な日本の自由都市=堺=境のDNAを引き継いだ貴重な無形文化財だ。

彼のDNAから、日本の未来と希望を引き出すことができる、というのは私だけの妄想だろうか。

2017年4月19日水曜日

忘れられた巨人「国難の日本人」:父の遺稿「我が青年期」(17.4.19)

2013年、が亡くなったあと、生前に彼が書いた「我が青年期」--といっても殆ど終戦前後の召集と満州での避難を記録した未完成の原稿が見つかった。

彼は、生前、この満州の逃避行について殆ど語らなかった。というより、私の子ども時代に、彼は語ろうとしたことがあったものの、語り始めや、顔はゆがみ、何かクシャクシャになったまま、絶句してしまうのだった。もともと口べたのせいもあり、そんなことが二度三度あったあとは、もうそれ以上、自ら続きを語ろうとしなかった。

しかし、私が20代の終わり頃、司法試験に6戦6連敗、どうあがいても乗り越えられないのではないかと絶望の底に沈んでいると、父は再び、満州の逃避行について語り始めた。田舎で妹の結婚式に参加し、久々に両親に再会した私に、同室の父は、フトンに頭をつけながら、
「あの頃は、眠りにつくたびに、二度と目覚めないんじゃないか、と毎日思ったもんだ。朝、目覚めると、ああ、まだ生きていると思った・・・」
「今でも、毎晩、そう思う」
とさらりと言った。この瞬間、私は毎年不合格で親を嘆かせている我が身の親不孝を実感した。
しかしその後、父にはそんな嘆きの気持ちは微塵もなかったのではないかと思い直すようになった。彼は私が不幸の底に沈んでいるとき、そのとき初めて、自分自身が戦争で経験した途方もない不幸を自分の肉親と共有できる稀有な機会にめぐり合ったと理解し、彼の体験を語ったのだ、と。

同時に、父の戦争期の体験が30年以上経った今も、毎晩蘇っているとは思ってもみなかった。
しかし、そう思って振り返ると、彼の言動の肝心なところはすべて戦争期の体験がそのまま反映しているとしか思えないことが分かった。 90歳の時、医師から「胃がんです。高齢ですから、無理することはありません。手術、どうしますか」と聞かれたとき、即座に「やります」と答え、そのあと父は、突然、満州での逃避行の話をし始めた。思うに、彼は、自分にとって人生の決断の瞬間にはいつも、彼が様々な試練に遭い、それと苦闘する中で生き延びることができた、満州の逃避行の体験に立ち戻って決断がなされたのだった。

敗戦のあと、日本人は気持ちを切り替えて、経済的復興に励み、経済的繁栄に成功したと言われている。その中にあって、彼はとても変わり者だった。なぜなら、生涯、「満州の逃避行」の体験にこだわり続けたから。
そのおかげで、 戦後、日本が経済的繁栄を極めたあとも、彼はその栄光に浮かれず、踊らされず、奢らず、昔と変わらぬ質素で慎ましく生きる姿勢を変えなかった。

しかし、なぜ彼は、経済的復興に邁進する日本社会の主流に合わせて一緒に踊らなかったのだろうか。なぜ彼は、経済的大国ニッポンから背を向けるようなあまのじゃくな生き方をしたのだろうか。なぜ彼は、戦争中の、こんな忌まわしい「満州の逃避行」の体験をさっさと水に流せばいいのに流そうとしなかったのだろうか。なぜ彼は、誰からも賞賛されないのに、ひとり、「満州の逃避行」ににこだわり続けたのだろうか。

思うに、戦前、朝鮮半島で日本が軍事的栄華を極め、我が世の春を謳歌して来た末に最悪の日を迎え、命からがら満州平野を逃げ延びた経験をした父の目には、戦後、日本が経済的復興に励み、経済的繁栄を極めた姿が戦前と重なりあって写っていたのではないかと思う。
戦後日本の経済的復興も繁栄も、隣国の朝鮮戦争、東南アジアのベトナム戦争に負うところが大であり、日本の経済的繁栄と戦地の人々の悲惨な死とが隣り合わせであることを知っていたからではないかと思う。だから、このような欺瞞に支えられた経済的繁栄はいつか必ず破綻し、2つの戦争(1つは人間と人間との戦争、もう1つは人間と自然との戦争=原発事故)という最悪の日を迎えることを確信していたのではないかと思う。

だから、そのような悲惨な事態にならないように、彼は、戦後、絶対永久平和主義者として、戦争反対を言い続けた。その彼の行動を支える原点は満州での悲惨な逃避行という体験だった。戦後の彼にとって、この体験は、もはや、過去のつらい、苦しい思い出ではなく、現在と未来の命(それは単に自分の子ども・子孫の命だけではなく、この世に生を授かった全ての人々の命に対しても)を守り抜くための、無知の涙を流しながら悟った貴い認識だった。幸い、彼は毎晩床につくたび、満州平野で流した無知の涙を思い出し、原点を思い出し、そのくり返しを最期まで続けた。

災いを転じて力となす--これが父が成し遂げたことだ。だが、これが実現するという保証はどこにもない。にもかかわらず、彼は満州の逃避行の体験を最後まで宝のように後生大事に持ち続け、その意味を考え続け、その姿勢を貫き続ける中で、とうとう、災いを生きる力に転化するという奇跡を成し遂げたのではないかと思う。

以上のことは、父が満州の逃避行を文章に書いてくれたからそれを読み、そこから考えをめぐらしたものである。もし彼の記録が書かれていなかったら、それは不可能だった。もし父の記録がなかったなら、子どもである私にとって、彼の貴い体験は存在しなかったにひとしい。否、彼の存在はなかったにひとしいほどに思えてくる。
彼の記録は、改行も句読点も満足になく、誤字・脱字に満ちている。
しかし、これは父から譲り受けた最大の遺産である。
                                           (柳原 敏夫 2017.4.19)

※ 追悼 「父の涙、そして逃げる勇気」(2014.2.28)


                     柳原賢作「我が青年期」
http://1am.sakura.ne.jp/All/MyYouth.pdf
(クリックすると原稿が表示)

※ 生まれ故郷:佐渡の赤泊

※ 終戦時の住所:朝鮮半島の羅南

2014年2月28日金曜日

忘れられた巨人「国難の日本人」:父の涙、そして逃げる勇気(2014.2.28)

先日久しぶりに、ふくしまの子どもたちの避難支援のためのイラスト作成をお願いしに、ちばてつやさんにお会いしたとき、開口一番、「お父さんがお亡くなりなったそうで」と言われました。
 
「大地の子」のように、幼年時代、満州で九死に一生を得て帰国したちばさんには、同じ境遇を生き延びた親父のことが他人事には思えなかったのではないかと思いました。
明日の一周忌を前に、カミさんが、文集を編集し、父の写真を沢山掲載しましたが、その沢山の写真を眺めていて、あらためて、そこには決して収まることのなかった、終戦直後に満州平野を逃げ延びるときの父の姿が、脳裏の中で思い出されてなりませんでした。

1917年に新潟県佐渡島に生まれた父は、戦前、生来の人柄と大陸での生活のおかげで、能天気でお人好しの見本でした。それが終戦の1ヶ月で豹変しました。それまで、満州鉄道の職員として植民地生活の特権の端くれを享受していた父は、終戦前夜に至っても、大本営発表をうのみにして避難もしなかったふつうの人だった。しかし、8月9日、ソ連参戦の報と同時に現地招集されて事態が一変した。ろくな装備もないズサンな軍隊としてソ連兵と向かい合う羽目となり、偶然にも命を落とさず終戦1週間後に武装解除を迎えたが、今度はソ連兵に捕まってシベリア抑留になるまいと、ドブネズミのように満州平野を逃げ回る羽目となったからです。
このとき、父は初めて思い知ったそうです――自分は、軍の将校たち戦争推進者たちが逃げのびるための「盾(たて)」として召集され、ソ連兵との戦闘の最前線に立たされたのだ。自分はただの兵士ではないのだ、いけにえにされたのだ!と。
しかし、父の目の前にあるのは、途方もない満州平野だけで、自分を救ってくれるものは何もなかった。絶望する理由と現実はあり余るほどあった。にもかかわらず、彼は絶望しなかった。昼間は草原に身を隠し、夜間に行動して、1ヶ月後に中国撫順市に辿り着いたからです。でも、どうして? なぜ絶望しないで、逃げ続けられたの?それは長い間、私の謎でした。それは奇跡としか思えなかったからです。
しかし、父はこのとき、一度、死んだのです。だから生き延びられたのです。それまでの自分の無知を恥じ、「無知の涙」を流したからです。それまで行儀よくしつけられ、学校で社会で大本営発表をうのみにする羊のようにマインドコントロールされてきた自分を殺したのです。羊からドブネズミに生まれ変わったのです。
そして、ドブネズミに生まれ変わった彼の心を支えたのは「永遠の子どもらしさ」だった。彼はこのとき、子どもに生まれ変わったのです。この世で最強の者は子どもです。なぜなら、子どもには未来しかないからです。生きたい!という無条件の渇望しかないからです。世界一過酷な環境を父が生き延びれたのは生きたい!という渇望に支えられたからです。

このとき、もし父が絶望していれば、その後、私の命も、私の子どもの命も、昨年生まれた孫の命もありませんでした。いま、私が、子どもが、孫がこうして生きていられるのは、このとき父が絶望せず、逃げ延びてくれたからです。私は生まれて初めて、父の勇気に対し、そして先祖の勇気というものに対し、感謝の念を抱くことを知りました。
私たちが住む社会システムがタイタニック号と同じく、沈没することが時間の問題となった現在、沈没したあとに生き延びる私たちのために、父が残してくれた「父の涙と逃げる勇気」が最大の遺産であったことを痛感しています。                                                                                  
(柳原敏夫 20142.28

※父のHP(オイの愉しみと闘い