忘れられた巨人「中世の民衆」の可能性を 再発見、再定義するために

311以後、市民運動がぶつかっている最大の課題の1つが日本人の国民性と言われるものです。

ボランティアとして志願、チェルノブイリに5年半滞在し、現地でたくさんの子どもたちの甲状腺がんの手術に従事し、原発事故による健康被害の危険性を最も熟知している日本人の一人菅谷昭松本市長は、福島原発事故から2年経過した当時の福島県郡山市の市民の「今では沈静化した」「屋外活動の再開を決めた」「震災前と変わらないくらい外で遊ばせています」の発言を引用して、こう言いました。
ああ、また例の病気がぶり返したな」  それは、
難治性悪性反復性健忘症
いっとき「ワッー」と騒いで、ほとぼりが冷めると「スーッ」と消える。「のど元をすぎれば熱さを忘れる」を地でいくような難病。しかも、何度もぶり返すだけに特効薬もなく治りにくい。(菅谷昭「原発事故と甲状腺がん」16~18頁) 。

先ごろ、放射能災害からの救済に尽力を尽くしている或る専門家の人から、こう言われました。
日本は、いくら立派な法律をつくっても、憲法を平気で踏みにじる人が首相をやっているような国。その首相を選んでいるのが日本の国民。そんな国で、いくら立派な法律つくって一体どうするの?

もっとも、その方は、すぐにこう付け加えました。
私の発言は、全く希望を捨てているという訳ではありません。
このような国民性にあわせた運動というのが必ずあるはずだ、
それが市民立法という方法なのか、或いはもっと違う角度から攻めた方が良いのか 私には今のところ名案がない、という状態です。

この二人の話を聞いて、確かにその通りと納得する反面、いや、少しちがうと思う。そして、その少しの違いはすごく大きい、やがて、決定的にちがってくると思えてならない。

それは、「難治性悪性反復性健忘症」が日本人のゆるぎない本質的な特性だなんてちっとも思わないからです。
例えば、私のオヤジはのんびりした新潟県佐渡島の生まれで、満州鉄道で働いた太平洋戦争中も大本営発表をうのみにして何一つ疑わなかった能天気、お人好しの典型でした。それが終戦の1ヶ月で豹変しました。8月9日、ソ連参戦の報と同時に現地招集され、ろくな装備もないズサンな軍隊としてソ連兵と向かい合う羽目となり、偶然にも命を落とさず終戦1週間後に武装解除を迎えたものの、今度はソ連兵に捕まってシベリア抑留になるまいと、ドブネズミのように満州平野を逃げ回る羽目となったからです。このとき、彼は絶対永久平和主義者に変貌したのです。そして、戦後、帰国し、日本が経済復興に邁進してからもこのことを決して忘れず、絶対永久平和主義を生涯、手放しませんでした。
というより、彼は手放すことができなかった。なぜなら、彼は、毎晩、フトンにつくたびに、満州平野を逃げ回った体験が脳裏によみがえり、「二度と目覚めないんじゃないか」という思いに襲われ、朝は朝で、「ああ、まだ生きていた‥‥」という思いに襲われ続けたからです(「父の涙、そして逃げる勇気」参照)。

実際にも、500年前の日本には、アンチ難治性悪性反復性健忘症」の日本人がゴロゴロいたことを網野善彦らの中世史の研究から教えられた。要するに、自分の運命を他人お偉方たちの手にゆだねるという依存症型人間ではなく、自らの手で自分の運命を守り、自ら自分の運命を切り開く、という「市民の自己統治」を当たり前のことと考え、これを実行した独立と平等を志向する市民が当時の日本にゴロゴロしていた。

それが時の新興勢力の織田・豊臣・徳川らの残忍な弾圧の前に敗れ、敗者として歴史の表舞台から消し去られた。しかし、たとえどんなに抑圧しようが当時日本に、富や権力の偏在や格差を認めず、独立性と平等性の倫理貫こうとした「市民の自己統治(自由都市・一向一揆)」があったという歴史の真実は消せない。

この「市民の自己統治」を実行してみせた中世の民衆のDNAは、500年後の私たちの中にある。そして、私たちの中で静かに眠っている。目覚めるとは、自分の中のこの眠ったDNAに気がつくことだ。
私の極楽トンボのオヤジ太平洋戦争という国難で、一瞬にして絶対永久平和主義者に変貌したのも、自分の中の眠っていたDNAに目覚めたからだとしか思えない。

もっとも、平時安定の時代なら、このような抑圧されたDNAがよみがえる必要もないと思う。しかし、311以後、私たちは、望むと望まざるにかかわらず、放射能災害がもたらした見えない国難の中にいるそこで、この国難の意味を正しく理解すれば、500年前の抑圧されたDNAに目覚めることの必要性・意義はとても大きい。それは難治性悪性反復性健忘症を成し遂げることなのだから。

難治性悪性反復性健忘症は日本人の宿命ではない。 それは500年前の日本の過去を見れば明らかである
の意味で、日本の未来は日本の500年前の過去にある。福島原発事故のまやかしの救済ではなく、正しい救済を実現するかどうかは、日本の500年前の民衆たちの間にゴロゴロあった「市民の自己統治」を再発見し、再定義するかどうかにかかっている。

このブログは、忘れられた巨人「中世の民衆」の可能性を 再発見、再定義するためのものです。

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